「五輪招致決定」の意味をあらためて考える

日経ビジネス9月13日号小田嶋隆氏の「五輪招致反対派の落胆と祝福」を読んで大いに共感しました。
私は小田嶋氏とほとんど同じように、内心では汚染水対策が後手に回ってあたふたしている福島原発への対応をさしおいて、五輪招致にエネルギーを割くことに反対でしたし、汚染水の状況から五輪招致は失敗するだろうと思っていました。
ところが予想に反して五輪招致が成功しました。そうなると日本人としては肯定的に受け入れるしかないと感じました。その感覚から、安倍首相の「汚染水はコントロールされている」などの発言はいい加減な大見得だと思いながらも、政府が必死になって取り組むことになるのでプラス要因であり、嘘から出たまことになる可能性もあるかと肯定的にとらえました。
しかし、小田嶋氏の論述を読んで、あらためて五輪決定の意味を冷静に考えることが必要ではないかと思いました。

●小田嶋氏の論述のポイント
・私は、百パーセントの反対論者だったわけではない。いくつか、反対する理由をかかえていたということで、比率で言うなら、反対7、賛成3ぐらいの気分だった。

・が、予想の面では、9割方東京の目は無いと思っていた。そうなってほしいと思っていただけだ。願望がそのまま予断として私の思考を限定していたわけだ。

・東京招致が実現して、半分ぐらいは祝福する気持ちでいる。たった一夜のうちに、賛否の割合が五分五分ぐらいのところまで変化したわけだ。わがことながら、なんと軽薄な心構えであろうか。

・おそらく、半年もすれば、私の内心は、期待が6割に不安が4割ぐらいの比率になっている。でもって、7年後の開催時には、ワクワク感9割の好々爺になり果てているはずだ。そういうふうにして人の心は動く。オリンピックのようなものに反対を貫くことは本当にむずかしい。

・今回、開催都市として東京が選ばれたのは、必ずしも最終プレゼンテーションのパフォーマンスが優秀だったという理由からではない。

・東京での開催が支持を集めたことは、わが国の政治経済外交を含めた総合的なプレゼンスがそれだけ評価されていたということであり、同時に、日本人のホスピタリティーが世界の人々の心に深く浸透していたことを意味している。ついでにいえば、オリンピック精神を奉ずるIOC委員からの高い評価の背景には、平和憲法への敬意が、いくぶんかはあずかっていたはずだ。

・ということはつまり、招致成功は、必然だったのである。こういうことを広告代理店や戦略家の手柄に帰してはいけない。

・私自身は、五輪招致への賛否は別にして、開催国として選ばれたことについては誇りを持って良いと思っている。

・いまさらながら反対理由を述べるのは、個人的に、五輪招致に反対していた人間は、開催が決まったら、要望を投げかける役割に転じるべきだと考えているからだ。

・経済効果を訴えていた人たちの多くは、経済的な恩恵にあずかることがはっきりしている人々だった。具体的には、広告関係者とマスメディア周辺の人間とスポーツの競技団体に連なる人々だ。

・テレビ局は、NHKも含めて、今年の年明け以来、まるっきりの招致アジテーション報道一色になっていた。

・彼らは直接の利害関係者だ。考えてみれば、祭りの開催に露天商が反対する道理もないわけで、ひるがえって述べれば、私は、そういう図式が嫌で、反対の気持ちに傾いていたのである。

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・お客様を招くからというモチベーションで部屋の片付けをしている人たちがいる。本末転倒であることは否めないが、それでも、完全に片付けをあきらめてしまっている人々よりは、ずっとましな生き方ではある。

・そういう意味で日本は、福島の状況について、少なくとも、2020年までには、恥ずかしくない形での収束の道筋を明示しなければならない立場に就いた。これまでのような場当たり的な対策や、内輪向けの弥縫策では、国民だけでなく世界が納得しない背景ができた、ということでもある。

・片付けには来客、復興にはオリンピック、事故処理には外圧、ということなのだろうか。来客が苦手な私としては、いまひとつ釈然としない結末ではあるのだが。


<所感>

・「東京招致が実現して、半分ぐらいは祝福する気持ちでいる。たった一夜のうちに、賛否の割合が五分五分ぐらいのところまで変化したわけだ。わがことながら、なんと軽薄な心構えであろうか」の論述に自分の姿が改めて見えた気分になりました。

・「優先順位が違う、原発事故収束第一、オリンピック招致にエネルギーをかけるのは誤り」と思っていたのに、招致が成功した以上日本人としては肯定的に受け止めるしかないと感じた小生の感覚と小田嶋氏の感覚はほとんど同じです。

・昭和時代戦争に突入していく時代の流れに反対していた知識人たちが、開戦の詔勅に感激した日記を記したのも同じような感覚があったのだろうと推察します。軽薄かもしれないが、その底に抗しがたい感覚の変化があったと思われます。

・左右のイデオロギーを超えた日本民族としての立場が軽薄な感覚の背後にあると思います。問題はそうした民族的な立場が為政者に利用されることが多い点にあると思います。