治療入院中のテレビ、新聞、読書の記録(3)

<印象に残った書籍>

岡野守也著「唯識と論理療法(仏教と心理療法・その統合と実践)」佼成出版社

●現代の方便・論理療法
唯識はそれ自身はっきり自覚しているように菩薩向けの思想です。言い方を変えると、仏教の目指す究極のところはそれぞれが覚った人・ブッダになることです。けれども、その目標はすべての人の現状には適合しないので、大乗仏教の中にはもう一方、仏によって救われるという方便の道もあったわけです。

・かっての大乗仏教の凡夫の救いの方法論は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅という生存形態に落ちたりするという「六道輪廻」あるいはそれに声聞、独覚、菩薩、仏を加えた「十界」という古代インド的な世界観、神話的な世界観を前提にした中で、仏によって救われていく道という方便が立てられたのです。この方便はこころの発達が「神話的段階」の人々には非常に有効だったと思います。

・しかし今先進諸国では社会全体の意識水準が合理性の段階に到達していますから、神話的な世界観をベースにして救いを説かれても、あまり有効性がありません。

・仏教の本質は覚りの世界であり神話ではありませんし、神話をすべて否定しても、空思想や唯識思想の語る「覚り」というコンセプトは十分に成り立つものです。

・私は、覚りの世界に関しては深い無意識の世界が想定できると考えていて、そういう世界に目覚める能力を「霊性スピリチュアリティ」と呼んでいます。 大乗仏教的な「霊性」は「智慧と慈悲」であり、パーソナリティで言えば智慧と慈悲に満ちた人格「菩薩と仏」が、大乗仏教の目指す中核的なものだったと考えています。

・今の社会の水準は合理性の段階にあり、その合理性の担い手は基本的には自我です。ところが仏教は今いい方便をもっていないというのが私の仏教の現状に対する見方です。

●無我とは自我を無くすことではない
・近代、特に戦後日本は、決定的に個人・自我が人間の基本だということになった個人主義の社会です。

・それに対して過去の仏教には、集団主義社会の倫理という面がありました。そのため「滅私」「無私」イコール「無我」というふうに捉えられたのです。つまり理論的・教学的に自我の位置づけができていないのです。自我というものはいけないものと捉えられがちだということです。

・仏教の説く無我とは実体ではないということです。実体とは「なにものにも依存せずそれ自体で、それ自体の性質を保持しながら、永遠に存在できるもの」であって、仏教の目指す無我とはそういう意味での実体ではないというのが正しい解釈です。

・「自我」という言葉の大まかな意味は、「感覚したことをまとめ、認識し、考えて、意思決定する主体」ということです。

・私の考えでは、八識的な自我(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感と意識とマナ識・アーラヤシキの二つの深層意識)でも一回は作らないと、人間は普通の人間にはなれない。しかしそのままでは世界の本当の姿が見えていないので、それを超えてまずは菩薩的な自我さらには四智的な自我(註)を形成する必要がある。

(註)四智の解説
・深層意識のアーラヤシキに覚りの種をたくさん入れれば、宇宙と自分との本当の姿が映し出されて、完全な鏡のような「大円鏡智」という心になる。するとそれに影響されて、深層意識のマナ識は、自分と宇宙、自分と他者は根本的には一体・平等だということを心の奥から本当に思えるという心に変わります。「平等性智」といいます。こころの奥底がそのように変われば、意識に湧いてくる思いも、世界と他者、いろいろなものは仮には分かれているが本当は一体だというふうに観察・洞察できるように変わりこれを「妙観察智」といいます。そして、今まで自分の都合のいいものしか見ない、聞かないというふうに働いていた五感がなさるべきことを成し遂げることができる智慧に変わります。「成所作智」です。

・八識的な自我といっても適応的な自我と非適応的な自我があるのですから、自我以前から適応的な自我を育て、それから菩薩的な自我さらに四智的な自我を育てる、その全ルートが仏教の方便の対象だと思うのです。

・江戸時代であればいい凡夫を育てる原理は儒教でよかったわけですが、今いい適応的な自我を育てるために論語をもってきても通用しませんから、いい市民として生きていくことができるパーソナリティはどういうものかという原理を心理学から学びながらそこから先に学ぶもがまだあるということをきちんと伝えるのが現代仏教の大きな課題だと思います。

●欲望の否定から欲望の肯定へ

・現代心理学の目でみると仏教の欲望のとらえかたは不十分、あえて言うと不適切なところがあったと思います。

・近代の産業社会というのは欲望を充足すること、すなわち消費はいいことであり、社会の発展の原動力だっという前提で営まれています。

マズローは、人間の欲求を臨床心理学的に考察して、自然で健康な欲求と病的な欲求に分けて考えなければならないという結論に達し、自然な欲求を「基本的な欲求」病的な欲求を「神経症的な欲求」と呼んでいます。

マズローは、基本的な欲求は階層構造をなしており、まず「生理的欲求」があり、それが適時に適当に満たされると「安定・安全の欲求」が出てくる。安全・安定の欲求が適時に適当に満たされると「所属と愛への欲求」が起こり、次には「承認欲求」さらには「自己実現の欲求」というふうに五段階になっていると主張しました。そして欲求が適時に適当に満たされないとある特定の欲求に対する神経症的な固着が起こり、病的なパーソナリティ形成につながっていくとしています。

・基本的欲求が自己実現というレベルまでいくと、それはほとんど大乗仏教の「自利利他」の世界に近づきます。つまり、(自分が生きたいように生きていることが、まわりのみんなを幸せにすることになる、みんなを幸せにすることが私のやりたいこと、そういう状態になっているのを「自己実現」というのです。(ナポレオン・ヒルによれば、「世の中に貢献することによって、正当な報酬によって利益を得、得た利益をまた社会に還元する、それを成功という」と成功の定義がはっきりしています。


・さらにマズローは、自己実現欲求で終わりにならない。つまりある人が自分でしかできない自分の在り方を確立したとしても、やがて死すべき自分だということを自覚するわけです、すると死んでしまう自分が自己実現したからそれが何なのかというニヒリズムに出会い、そのとき有限の自己ではなく無限の永遠の自己を発見したいという「自己超越欲求」が起こるというのです。

・仏教の煩悩論は修正しなければならないのではないでしょうか。仏教は発展・深化すべきもので、心理療法の使えるところは全部使うという発想に立つ必要があります。

<所感>
・現代人の仏教論として、伝統的仏教論を超えるためにきわめて説得的な内容であり、大いに共感しました。

●論理療法のABC理論
・AとはActivatinng eventつまり”きっかけ”になる出来事という意味です。何か出来事があると、ある感情Consequence結果”が出てくる。これがCです。 エリスは同じような辛い出来事に遭っても、がっかりする程度の人と絶望する人との差があり、その差は出来事に対する受け止め方から来ているといい、その人の心の奥深くにある信念と言ってもいいくらいのものをBeliefと呼びました。つまりA→Cではなくて、出来事Aの結果Cは、途中の信念Bの¥によって大きく変わってくると考えるわけです。

・論理療法では、人間の感情を肯定的なものと否定的なものに区別し、そのうえでさらにそれぞれを健全なものと不健全なものにはっきり区別します。

・エリスは、不健全な否定的感情をもたらしてしまうような非理性的・非論理的な思考を問題のポイントとして取り上げ、この思考を変えてやると、否定的であっても健全な心の在り方になることができるとしています。そしてかなりの程度感情をコントロールする方法(論理的・合理的信念による非理性的信念の論破)を見出したのです。

・何か大事なものを失った場合悲しいのは自然で健全な感情です。ところが抑うつ・落ち込みというところまでいってしまったとすると、それは不健全だということです。非理性的信念を理性的信念に取り換えることによって人間は不健全な状態にならなくて済むというのです。仏教的に言えば煩悩を軽くするということです。

●論理的・合理的信念とはどういうものか

・a)柔軟であること、つまり「ねばならない」と決めつけないこと。b)論理性が高いこと、つまり論旨が一貫していること。c )現実と一致していること。d)健全な目標達成に役立つことの四つです。

・リストラに遭って「もう俺はだめだ。死んでしまいたい」と感じる人と「がっかりしたけど、まあ自分がやりたかった仕事への転職の決心がついた」と思う人もいるわけです。この二人の差はどこにあるかというと、信念Bにあるのです。

●適応的自我の確立
・論理療法では否定的感情すべてを無くそうとするのではなく、健全な範囲に軽減できればいいと考えます。まず自分が気持ちよく生きられるようになれるのが適応的であり、加えてまわりの人ともうまくやっていけるのが適応的ということです。

・考え方を変えるだけで「きつい、でも耐えられる」となったら「次にどうしたらこの事態を改善できるか」と考えられます。
「いやな出来事に対する適切な対処は二種類しかない」。出来事を改善するかそれとも受け入れるかです。変えられるものは変えればいい。変えられないものは受け入れるしかありません。

●「ねばならない」思考を見つけて論破する
・典型的な思い込みの第一に「私はどんなことがあっても立派にやらなければならない。私は大事な人には絶対認められなければならない。どうでなければ社会的にダメな人間なのだ」というのがあります。それに対して次のように論破していくのです。

・「そんな法則や宇宙の法則でもあるんですか」「人間は不完全なものであり、立派にできることもあればできないこともあって当然ですよね」「失敗したら本当に最悪なんでしょうか?これは最悪といえないんじゃないですか。正確に表現すればかなり厳しいということですよね」・・・

●非合理的信念に反する行動をする
・非合理的な思い込みに反する行動を敢えて実行する。たとえば対人恐怖症で知らない人の集まりに行くことの苦手な人の場合こうしたやり取りをします。「どうしても必要なときには行きますが」「必要なときに行って今まで失神したことがありますか」「いやありません」「好きじゃないかもしれないが出られないわけではない」「ではもうどんどん出てしまいなさい。そして講演会のように知らない人の中で、席に座ったら左右の人にこの講演会をなんでお知りになりましたかと尋ねてみたら、だいたい返事はもらえますよ。

<所感>
・適応的自我の形成が成功できれば自然に自利利他円満の世界に入ることが容易になります。そうなれば菩薩道の初歩である無財の七施眼施和顔施言辞施身施心施床座施房舎施)も自然に可能になると思われます。確かに論理療法は現代に有効な方便だと思います。