読書から

五木寛之著「人間の覚悟」新潮新書刊から>

●時代を見すえる
・時代は地獄へ向かって劇的に近づきつつあるようです。朝日新聞の一面トップ記事に、自殺者が十年連続で三万人を超えたという記事が載りました。そして、いまほど残忍で目をおおいたくなるような犯罪が社会面を賑わせたことはかってありません。

・これからは地獄へ行くのだと覚悟しなくてはなりません。覚悟という言葉は仏教用語で、「迷いを去り道理を覚ること」とあります。ほかに「危険や困難を予想して、その心構えをすること」そして「あきらめること、観念すること」があります。

●統計や数字より自分の実感
・国や政府、マスコミが揃って言うことなど信用できない。自分と身の周りで起きていることをよく見て、「明らかに究め」それを頼りにする覚悟を決めるしかないのです。

●地獄は見えるが見ていない
・「格差地獄」「労働地獄」「貧困地獄」「介護地獄」ーーー他にいくらでも挙げられますが、日本の社会というものにメリメリと大きな亀裂が走り、その奥はすでに見えてきています。荒野のような世の中がやがて目の前に出現するに違いないと予感する。しかし、怖くてそれを直視できずにいるのです。


・間もなくはっきりした地獄が見えてくる。しかしいくらそう言われても、人は事実を実感できないものです。ミッドウエイで敗戦し、ガダルカナルを撤退し、アッツで玉砕した時点で日本軍の負けは見えていたのに、米軍が沖縄に上陸し、空襲で東京が焼け野原になっても、まだ大丈夫だと多くの日本人が思っていたのですから異常です。

●日本人に洋魂は持てない
・欧米流の自然保護はこれ以上空気や水を汚して森を破壊すると人間の生活がもたない。人間をまもるために自然を濫費しないようにしようという考え方が根源になっています。

・しかしそれではもうだめなのではないでしょうか。虫にも動物にも心があり、森にも山にも命があると考える日本人の伝統的心性こそ、環境について考える上で、根本的大転換をもたらす新しい思想として現代に大きな価値を持つのです。

・これから先の日本は人口が減り、斜陽化し、産業は停滞していくのです。経済成長だ、GDPが世界で何番目だと誇るのでなく、日本人が大事にしてきた精神世界の恩恵とそれが持つ可能性を、あらためて国内にも世界にもメッセージすればいい。

・ゆっくりと下降し、やがてはどこかに静かに着地する二十一世紀には、そういうことが大きな価値として歴史に残るのではないでしょうか。


●人間の覚悟
親鸞は人はだれでも悪人である、と言ったわけですが、私にとっては(敗戦後)引き揚げで生きて帰ってこられた人は皆悪人です。こうして生きている自分も悪人なのだと覚悟しています。すべて悪人も救われるという親鸞の言葉が自分にとっては唯一の光でした。

・良きことはむくわれない。愛もむくわれないと私は思っていたいます。良いことをすれば相手が感謝してくれる、愛したぶんだけ愛されて当たり前と見返りを求めるからストーカーになるのであって、人の想いは通じない、と覚悟しておくことです。もしだれかが「ありがとう」といってくれたら、狂気乱舞すればいいのです。

・世の中というものはものすごく不合理で、人間は非条理なものだという感覚は常にもっていたほうがいい。マイナス思考とは意味合いが違いますが、まずすべてを最低の線から考えた方がいいような気がします。


アイオワ大学の教授がこんな実験をしました。木箱に砂だけ入れて一本のライ麦をの苗を植える。水だけで育てて根の長さを測ったら何と一万一二○○キロメートルもあったという。私たち人間が今日一日を生きるということは、どのくらいの根を世の中に張り巡らせていることか想像するだけで気が遠くなります。人は生きているだけで偉大なことだのだと思います。

●いかに生きるかを問わない
・下手くそでもくだらなくても少々いい加減でも、とにかく生きていることはすごい、と自分のことを認めてあげたらいいと思います。

・歴史をみればわかるように、何十年かおきに坂を上がったり下がったりするものです。人は「坂の下の雲」を眺め、谷底の地獄を見つめなければならない時がある。だからこそ覚悟が要るのです。

ブッダが「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分はだれも代わることができないたったひとりの存在だから尊いのです。このことは上がり坂の時代でも下り坂の時代でも変わりません。生きることの大変さと儚さを胸に、この一日一日を感謝して生きていくしかない。そう覚悟しているのです。


<所感>
・2008年11月出版の著書ですが、今月出版されたといっても疑われない内容です。私と殆ど同時代を生きてきた人ですから、思考や感情の流れの襞に共感するものが多く、また文学者ですから表現力豊かなので、そうだそうだ、こういう表現をすればいいのかうなずきながら読み終えました。

・下り坂時代に直面し、後期高齢者として下り坂人生を生きる旅路に有益な杖として、今後も再読しようと思います。