読書三昧

2月の治療入院中は読書三昧に過ごしました。

日野原重明著「人生百年私の工夫」幻冬社刊より>

●どう死ぬかを考えることはどう生きるかを考えること

・生きることについては、明らかに自分で選択することができます。生きることはたしかに苦しいけれども、生き方を工夫すれば、生きることを楽しみに変えていくことができます。

・それでは、老いること、病むこと、死ぬことは逃れようのない苦しみなのでしょうか。私はそうではないと思います。

・どのようにして老いるか、どのようにして病むか、どのようにして死ぬかを工夫していけば、こちらも楽しみにしていけるはずだと考えます。

・死ぬのは嫌だ嫌だといってステージから引きずり下ろされるのか、自分自身で花道を歩いて退くという静かな終焉を迎えるのか、それはその人次第です。

・「いつ死んでも大丈夫」という用意を整えて、「いつ死んでもいい」という覚悟を持っておくことが、これからの人生をいっそう充実させるのです。

・死は足元に迫っているかもしれません。しかしふだんから精いっぱい生きている人は、あと一日しか生きられないと分かっても、後悔することはありません。死を快く受け入れる用意が整っているからです。

●体をいたわることと体を甘やかすこととは違う
・病気のときには体を十分にいたわる必要がありますが、ある程度回復したのにいつまでも体を甘やかしていると運動機能が目に見えて低下してしまいます。低下するのは運動機能だけではありません。脳に対する刺激も少なくなります。また動かないでいると、見たり聞いたりする考えたりする機会が少なくなりますから、脳が受ける刺激がますます少なくなります。使わない脳はサビつき、その結果ボケという症状があらわれます。

<所感>
・多くの患者の死を看取り、百歳を超えてもお元気な日野原先生の言葉は重い言葉です。「いつ死んでも大丈夫という用意を整える」「いつ死んでもいいという覚悟を持っておく」は、ある意味で平凡にきこえることですが、きちんと実行するのは容易ではありません。ある意味で平凡にきこえることを非凡な水準で実行することが、日野原流の生き方の極意のようです。

・背骨が歪んで歩行が困難となってどうなることかと心配した母べえが、名医のおかげで快復し、重いカメラを持って鳥撮り撮影に出かけていますが、好きなことで体を動かしたことが治療効果を促進したのだと思われます。私もせめてしっかり散歩しよう。