療養の日々は健康の日々ではない
●療養の日々は健康の日々ではない
難病に対する治療法が決まりました。4日間の点滴と6日間の内服薬の治療です。一回目の
治療が済んでめでたく退院し、 家庭で通常の日常生活を送ることができ、喜んでおります。
そうはいっても症状悪化のリスクが消えたわけではありません。
2か月毎に再入院して同じ治療を行うことになっています。それと併用して隔日に服用しな
ければいけない薬があります。この薬は副作用が強いと説明されていましたが、退院後ほと
んど副作用を感じていませんでした。
ところが3日前に服用した時、翌日朝は眠くていつもより2時間長く眠るし、午後にはやた
らに眠くなり2時間以上も昼寝してしまいました。そして昨夜服用した翌日の今日も同じ
現象が起こりました。
こうしたことが続くようだと、家庭での平穏な生活は可能であっても、健康な人のように
1日をフルに使用する生活を送ることはできないのだとあらためて自覚した次第です。
残念ながら旅行も無理なようです。
それでもこの程度の副作用で、S先生の「3年間の治療後はリスクは縮減します」という
展望があるので、健康人としての生活を取り戻せるという希望があり、療養の日々として
受容し過ごして行こうと思っております。
幸い起きていられる時間は、健康人と変わらない生活ができるので、知的学習は可能であり
人生を考え味わうことと日本再生の展望を学ぶことは可能です。
●曾野綾子著「自分の始末」を読んで感銘した個所を抜書きします。
・人間がなにをもって生きていけるかということは、大きな問題です。衣食住が十分あって
安全があってそれによって生きるということはあっても、魂で生きるというような発想が
日本にはなくなってきたんではないでしょうか。
人は何に人生を捧げるかという視点がなくなってきたような気がします。真善美という言葉
があります。真と善については多分共通認識できるところがありますが、最後の美について
は、教師も文部省も教えられないのです。 「愛のために死ねますか」より
・老年になるともらうことばかり期待して、ごく些細なことでも人に与えようとする気力に
欠ける人がたくさん出てくる。その時人は初めて老年になるのだ。
しかし寝たきり老人でも感謝を忘れなければ、感謝は人に喜びを「与える」のだからやはり
壮年なのである。 「晩年の美学を求めて」より