功利主義の考え方から脱却するヒント(2)

「無功徳の布施」というキーワードで検索したところ、「つらつらなる日暮らし」というある曹洞宗寺院副住職のブログに出会いました。

●「無功徳」は、よほど心得て使用しなければいけない言葉だろう

・たとえばお寺に梵鐘を寄付していただいたとしよう。そして寄進した檀家さんが訊く。
「和尚さん、私にはどんな功徳がありますかねぇ」 私だってまさか「極楽行けますよ」とまで持ち上げるつもりはないが、いくらなんでも「無功徳」とは言えない。玄侑宗久師『禅語遊心』ちくま文庫

・とりあえず、分かりやすい例だと思いましたので、玄侑宗久師の言葉を引用してみました。確かに、「無功徳」は、よほど心得て使わないととんでもないことになります。とんでもないことというのは、一切の寄進をはじめとする寺檀関係を断絶状態に追い込むことになりかねません。

・拙僧などは「無功徳」を、功徳の実体化に拘る人に対して、それを「捨てる」ことを求める「運動」を示すことが目的の方便的用語であり、あらゆる状況に於いて使って良い普遍的用語では無かろうと思うわけです。

・あくまでも、特定の教えに落ち込んでしまうことを最大の問題であると捉え、それからの自由無礙な「運動」を示すことが教えの中心であるとすれば、今度「無功徳」に陥っている人に対しては「有功徳」を説かねばなりません。

・拙僧いつも思うのですが、「禅」というのは、有にも無にも拘らない宗派・教義であろうと思います。仏性1つ採ってみても、或る時には有仏性といってみたり、或る時には無仏性といってみたり・・・

<所感>
玄侑宗久師の「無功徳」の著書の「自業他得」「自業自得」「他業自得」という言葉の説明から、一途に功徳を求めることの愚かさに納得し感銘しましたが、今度はそのことにこだわり過ぎると、とんでもないことになるというこのブログに、またまた気持ちを揺さぶられました。

・凡夫の分別知は、真理を訊くと実体化してしまう危険があります。真理もまた空であり、こだわり過ぎると、とんでもないことになるという視点を忘れてはいけないと思います。ここに、仏教のもつ魅力、ほかの宗教や思想と違う特徴があると思います。