功利主義の考え方から脱却するヒント

青年時代から抱い疑問「世のため人のために尽くすという行為は、人間の本音では不可能であり、建前としての一種の偽善に過ぎないのではないか」の解決に、ヒントとなる書物に出会いました。玄侑宗久著「無功徳」海竜社刊です。感銘した部分を抜き書きします。

●人間本来の性が善であるのか悪であるのかは、簡単にどちらが正しいと決めかねる問題である。性悪説の根拠は誰にでも容易に見つかるだろうが、性善説は一種の信仰のようなもだ。そして人は、どちらの立場でものを考えることによって、全く違う世界を作り上げるだろう。
アブラハムの宗教(ユダヤ教キリスト教イスラム教)の人々は性悪説の立場であり、人間は厳正に管理、監視されるべき存在である。・・・いつのまにかこの管理・監視の思考が日本にも色濃く流れ込んでいる。
●仏教では、人間の善なる行為がもたらす結果について功徳と利益(りやく)という二つの言葉で捉える。この利益と言う文字は「りえき(pofit)」のイメージのほうが強いだろう。
しかし本来の利益(りやく)は、誰かの損失分ではない。誰の行為とも特定できない多くの無名氏からの無償の贈与と考えていいだろう。行為者は善い結果が自分に戻ってくることは殆どないと知りつつそれでも善行を行い、その結果が無限の網の目を伝わって知らない人々に向かうことになる。思えばこれこそ、仏教の想定する人間関係の基本なのである。
●世の中に起こることの殆どは「自業他得」で、たまに「自業自得」があるだけといってもいいだろう。自業他得が利益(りやく)で自得するのが功徳である。悪い行いの結果も大部分は自業他得になるから、けっして悪いことをするまいと考えるのだ。また、自分では説明のつかない嬉しい結果を、どこかの誰かの行いの結果として享受する場合に、日本人はこれをご利益とお陰さまと呼んで感謝する。これは「他業自得」のケースである。
●現在の世界では、自業他得や他業自得というよく分らない関係性は無視され、ひたすら自業自得、つまり功徳を求めるシステムが採用されているのではないだろうか。・・・善い結果は自分の努力次第、悪い結果はすべて自分のせいというのは、潔く聞こえはするが、「縁起」という仏教的認識からは遠く隔たった妄見と言わざるを得ない。・・・自分については潔く聞こえる言葉でも同じ考えで他人も見るわけだから、とりわけ失敗いた人に対する「自業自得」「自己責任」という言い方には非常に無慈悲な空気が漂う。
●「無功徳」というのは禅宗の開祖である達磨さんと武帝との問答の一節である。武帝は仏教を熱心に学び、仏教普及のためにとても功徳を積んだ方だった。武帝はそんな自分にどんな功徳があるのかと訊ねた。達磨さんは愛想もなく「無功徳」と答えたのである。
●簡単にいえば「功徳を積んでいる」という武帝の意識が、功徳そのものを帳消しにしていたと云えるだろう。・・・まじめな努力家が最も陥りやすい陥穽がこの「功徳」の穴と云えるだろう。・・・おそらく現代社会も、誰もがこの功徳の穴に落ちて苦しんでいるのではないだろうか。こうすればこうなるはずなのにそうならない。努力が報われない。あるいは自分を認めない社会が悪い・・・。
●そんなふうに思うのは、世の中を功徳だけで見ているからではないか。自分の行為の結果の大部分はご利益として自業他得になることを前提に考えれば、それは当たり前のことではないか。本来自分に戻ってくる功徳はたまさかのものなのだと、もう一度きちんと肝に銘じるべきなのである。<所感>
・言われてみれば、自分の行為の結果の大部分は自業他得になるのであって、本来自分に戻ってくる功徳はたまさかなものであるということは、逆らうことのできない真理でした。縁起の理法を頭で理解しても、この真理に気づいていない自分に気がつきました。
・他業自得のお陰さまと自業他得の行為のバランスが崩れるときに社会の崩壊が始まるようで、自業自得一辺倒の考え方がそのバランスを崩す大きな要因だと思われます。崩れかけたバランスを再構築するためには、自業自得の意味での報いを求めず、自業他得の真理に素直に従うこころを持ったリーダーの出現が必要のようです。前途遼遠ですが仏教的考え方の真理から見れば、大変困難ではあるが不可能ではないと思われます。
・名誉や称賛やカネや権力や精神的充実という見返りが無くても、報いを求めずに志の実現に向けて全力投球した明治維新第一世代指導者の人々のようなリーダーの出現は、仏教的真理からみれば不自然ではないようです。残念ながら現代日本ではそうしたリーダーの出現は極めて困難の
ようですが、不可能とは言えません。