唯識を学び始める(その2)

<マナ識を平等性智へ転換する道について>

●(前回述べた通り)マナ識を超えない限り、いかなる改良運動も革命運動も挫折し続けるであろう。

唯識によれば、マナ識は、羅漢さんの段階、禅定・瞑想の段階、それから出世間道という修行のの段階に至ると平等性智に変わるという。
これが我愛に基づいた<愛>や、イデオロギーや理想による<平等>と、<平等性智>に基づいた<慈悲><平等>との違いなのだ。

<所感>
この道は前途遼遠で長期で困難な道程のようですが理論的には可能なようです。しかし、岡野守也氏はトランスパーソナル心理学の視点から、この困難な道をややなだらかな道に変える、大変魅力的な論説を述べています。

●とはいっても、相対的には健全なマナ識と不健全なマナ識の違いはある。マナ識に限界はあるといっても、人間は初めからマナ識なしに生きられるわけではない。
まずできるだけ健全なマナ識を形成し、その成長の限界に達してから、より高い段階へと発達変容を遂げていくほうが望ましいし、また可能なのではないだろうか。
唯識ー仏教はマナ識の問題を強調しすぎているのではないか。

●凡夫も成長促進の訓練ー修行を続けさえすれば、やがて阿羅漢になり、(菩薩になり)、仏になるのである。

マズローによれば人間は基本的欲求を適度に満たされながら成長するならば、自己実現の段階に至り、利己主義と利他主義は統合されると主張した。そして自己実現を遂げた人間は、さらに自己超越を目指すに至るという。

●しかしマズローでは欲求の階層性は連続的にとらえられていて、質的転換は考えられていない。それに対し、唯識では(マナ識を超える過程を)「転識得智」即ち根本的質的転換としてとらえられている。私は禁欲主義も快楽主義もどちらも人間の問題を解決しないと考えている。

<所感>
小生の自己診断では、自分は生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求の三段階はすでに通り過ぎ、承認欲求(尊厳欲求)と自己実現欲求の段階の中途段階に在ると思われれます(精神的見返りによる充実感を欲し、また究極の利己は利他であるという真理に共感をおぼえているが、まだ十分実行できていない)。このような人間がいきなり六波羅密の修行(その第一番目は布施です。もっともやさしい無財の布施でも本格的に実行するのは容易ではありません)を行えと言われても、なかなか修行が進みません。まず健全なマナ識を十分に育てることが大切と思っております。そして条件が熟したうえで、次の自己超越の第一段階=羅漢の段階へと進んで行きたいと希望しております。