唯識を学び始める

奈良旅行で薬師寺のお坊様の説教に感銘して以来、般若心教の学習を経て、現在は唯識の学習に取り組んでいます。(岡野守也氏指導「唯識の心理学」研究会)。
人間の心を六識(眼耳鼻舌身の五官と意識)と深層心理的なマナ識およびアーラヤ識の八識で捉える唯識の視点に大いに啓発されています。
意識の説明で煩悩の様相がわかりますが、そうした煩悩のさらに奥深いところで作用しているのがマナ識で、一番気になるところです。良いことをするときにも<我>があるという点の指摘に感銘する次第です。

●<私>という想いがあってやっているから、いいことをやっていても、どこか見返りが欲しいという気持ちがある。それは物質的見返りとは限らない。精神的見返りのほうが、ある意味では大きいのだ。
●「私は立派なことをやった」という成就感、感謝され、評価され、愛されて「私には価値がある」という充実・成就感を感じること、「我ながらたいしたものだ」という<我>の誇りを満たしてくれる刺激がほしいのだ。そのためには、人間、金も労力も何も惜しくない。だから人間は素晴らしいことをやる。普通私たちのするいいことは、マナ識に汚染された善にすぎない。だから必ず生き甲斐と意味を見出だしたがる。

◇所感
・ここまでの論述は、現実のやや優れた人間に当てはまると思われます。即ちマズローの欲求発達5段階(生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊厳の欲求、自己実現の欲求の自己尊厳ないし自己実現段階に到達している人間の状態に当てはまります。
・建前としての世のため人のためではなく、ミーイズムから半歩ないし一歩踏み出し本音で世のため人のために惜しみなく行動するのだから立派なものです。ただしこの段階では精神的見返りがないと、やがて精神的に疲弊して行動が鈍ってくるのが自然です。
・小生はそれでも、人間そこまで成長すれば自利利他円満の世界に生きるのであり確率的には精神的見返りがある方が多いので、見返りがなく疲弊するのは不運であって、あきらめるしかない。マンがのお粗末クンの「それでいいのだ!」と言いたい気分です。しかし、岡野先生はさらに論を進めます。

●精神的見返りが欲しいということは、結局<自分>のためにやっているわけで不純である。もし<私>というものがなければ意味などないし、いらないのだ。よく考えてみると、いのちというものは意味を超えている。だから生き甲斐や意味よりも大事なものがあるのだ。
●マナ識を超えない限り、いかなるユートピア運動も、改良運動も、革命運動もみな挫折し続けるであろう。もし本当に自他ともに平和で幸せな世界を望むのならばマナ識を平等性智に転換するしかない。このことは、私自身の課題であり、私たちすべての課題なのである。

◇所感
・言われてみれば頭では理解できる課題ですが、何せ凡夫の身ですからこの課題に実際に取り組むのは容易なことではないように感じます。
・初心の菩薩としてはまず頭で理解を深め、やさしい座禅をするところから始めるしかありません。