六波羅密をめぐる新発見

繁華街外出による感染症を恐れて欠席続きだった岡野先生の仏教講座に、先日ひさしぶりに出席しました。講義は「大般若経」でした。

驚くべき発見がありました。以前学んだ唯識(攝大乘論)によれば、大乗仏教の基本的な実践の方法は要するに六波羅密です。「不完全な凡夫が完成された仏になるための行」と「迷いのこの岸から悟りのあの岸に渡るための行」です。具体的には、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6つの波羅蜜です。

この六波羅密という言葉と内容説明を学んで以来、これは個人個人のこころのあり方の改革として理解しておりました。

しかし、今回「大般若経」の「摩訶般若波羅蜜経夢行品第五十八」の訳文を読んで、こころの問題だけではなく社会的実践を提唱していることがわかりました。

菩薩摩訶薩が布施波羅蜜を実践する時、衆生が飢えて凍えて衣服が敗れているのを見たら、次のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを得た時、私の国土の衆生に衣服・飲食・生活に必要なものが天界にあるようにしよう」と。こうした行をなすことで布施波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる。

菩薩摩訶薩持戒波羅蜜を実践する時、衆生が殺害をなし、邪な考えを持ち、寿命が短かく、病が多く、威厳がなく、貧乏で財産がなく、下賎な家に生まれて様子が醜いのを見たら次のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを得た時、私の国土の衆生に、このようなことのないよう」と。こうした行をなすことで持戒波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる。

菩薩摩訶薩が忍辱波羅蜜を実践する時、衆生が互いに憎みあい、怒鳴り合い、お互いに傷つけあい殺しあうのを見たならば、次のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを得た時、私の国土の衆生に、このようなことのないよう」と。こうした行をなすことで忍辱波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる。
菩薩摩訶薩が精進波羅蜜を実践する時、衆生が怠惰で精進せず、覚りに向こう岸へ渡る努力をしないことを見たならば、次のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを
得た時、私の国土の衆生に、このようなことのないよう」と。「こうした行をなすことで精進波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる」。

菩薩摩訶薩が禅定波羅蜜を実践する時、衆生が婬欲、怒り、眠気、後悔、疑いのため、禅定に入ることができないことを見たならば、次のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを得た時、私の国土の衆生に、このようなことのないよう」と。「こうした行をなすことで禅定波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる」。

菩薩摩訶薩般若波羅蜜を実践する時、衆生が愚かで社会常識的および超越的な正しい考えを見失い、カルマもなくカルマの因縁もないと説き、あるいは実体的霊魂の永続性を説き、あるいは死んだらすべては終わりだと説き、あるいは単なる空無を説くのを見たら、こ
のような願を立てるべきである。「私がこの上ない悟りを得た時、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私の国土の衆生に、このようなことのないようにしよう」と。「こうした行をなすことで般若波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができる」。

<所感>

奈良時代初期の慈恩大師、道昭、行基、徳一といった高僧の生き様は、まさに上記の視点に沿った生き様であったように思えます。また奈良仏教のお寺、仏像の力強さ、美しさはこうした生き様の反映なのだと思います。

・そうした素晴らしい唯識の世界が後半に道鏡のような堕落僧が発生して、平安時代に移っていく歴史を見ると感慨無量です。

奈良時代初期の優れた人々の精神、生き様をあらためて学ぶ必要があるようです。