小野田寛郎氏の生き様に感銘する

戦時中中野学校に入校、敗戦後「残置諜者」としてフィリピン・ルパング島のジャングルに戦後29年潜んだ末生還した、元陸軍少尉小野田寛郎氏(91歳)が亡くなられた。

1974年3月に戦時中の上官に当たる元少佐が、小野田氏に「任務終了と武装解除」を命令。フィリピン軍に投降した。当時、軍刀を手渡し挙手の礼をする写真を見た小生は、その姿に感動したことを記憶しております。(その写真が1月17日毎日夕刊に掲載されていました)。善し悪しは別として強い日本人の生き様の結晶の一つの姿だと思います。

小野田氏は帰国後次兄のいるブラジルに移住して原野を独力で切り開き牧場を経営。1976年に結婚した妻とともに両国間を行き来しつつ、日本でも講演活動を続けた。また、自然との付き合い方などを教える「小野田自然塾福島県塙町)」を開設し、国内各地でのキャンプ活動も行っていた。 

人生を3度生き直し、それぞれ非凡な生き方を貫いた小野田氏が、よく戦い続けましたねとの記者の質問に「死ぬのが嫌だったから一生懸命だった。死ぬのが嫌だったら頑張るしかないでしょう」。孤独だったでしょう、と尋ねたら「人間の弱さ、独り身の弱さが身に染みた。精神的な自由をある程度は我慢しても、多くの人々と共に生きることが大事なんです」
と答えた。「何をやるにも努力・度胸・度量だね。みんな『ど』がつく。これも語録の一つだ。
  ↑
  以上毎日新聞1月17日夕刊、1月18朝刊の記事参照。

<所感>

・非凡な生き方を貫いた強い心身の持ち主である小野田氏ですら、「人間の弱さ、独りの弱さが身に染みた。精神的な自由をある程度我慢しても、多くの人々と共に生きることが大事なんです」を発言されたことは、とても重い言葉だと心に刻みました。

・「共生」「協力」という概念の重要性をあらためて感じました。