「老いを生き抜く」から学ぶ(1)

やまさんからの情報に刺激され、森本哲郎著「老いを生き抜く」を取り寄せ学びました。
共感しながら考えをめぐらし、老いの生き方あらためて学びました。その一部を記録して
おきます。

●学ぶということ
・思い、学び、そして再び考え、学ぶ。それが真に”学ぶ”ことなのである。
・私は「教養」を「他から教えられ、自ら養うこと」と定義する。孔子が六十歳を「耳順
(じじゅん)、耳にしたがうといったのは、まさに還暦のこの年にして謙虚に人の説得を
受けよということではあるまいか。
・このように人生とは「教養」の道をひたすら歩んでゆくことなのである。

●教養について
・人生の悩みは技術的な処理によっては一向に解決されない。人間的に生を充実させるー
ーそのために必要なことは、ひとりひとりの人格を支える「教養」なのである。
・老年期、高齢期を満ち足りた心で送るためには、やはりそれなりの教養が必要だ。「学
ばざればすなわち老いて衰う(近思禄ー中国宋の哲人の著作)。」
・いつの世にも教養を身につけるための必読書があった。しかし、時代は変わった。いま
は必読書という言葉すら、あまり聞かれなくなった。現代の世の中ではただ技術的な思考
情報的な知識だけがまかり通っている。教養そのものが無視されている。
・だが個人の生涯設計を考えたとき、教養の無視が老後に及ぼす影響である。無教養では老境の憂さにとうてい太刀打ちできない。

<所感>
●教養について
私はやまさんのご指摘にたいし「教養というと気恥ずかしいので知的好奇心という姿勢で
す」と述べましたが、教養を無視する現代の風潮に染まったのかもしれません。
森本哲郎氏の真っ向からの「教養」への取り組みに刺激されて、私もあらためて教養とい
う言葉、姿勢に真っ向から取り組むべきだと自覚しました。

<追加所感>

●「無教養では老境の憂さにとうてい太刀打ちできない」について

・「憂さ」についてインターネットで検索したところ<思うに任せない> <つらい気もち><不愉快な気分><うっぷん>などの言葉で解説されていました。

・老境になると自分でコントロールできないことが増えるので、つらい気持ちになるわけ

です。憂さ晴らしにはアルコールや旅行などの気晴らしはありますが、一時的な気晴らし

にとどまります。しかし教養に励めば認知症にならない限り、こころの成長が可能であり

その充実感が気づかないうちに憂さを克服するのだと思います。

また、心底没頭できる趣味があれば似たようなことになると思われます(母べえの鳥撮り

写真の趣味はその没頭ぶりを見る限り、その一例になるでしょう)。




◇「社会学感覚」から抜粋
・今勉強を続けている國學院大學教授の講義録「社会学感覚」においても、先日似たよう
な下記の論述に出会って感銘しています

●ふたつの知識
アメリ社会学者グールドナーによると知識には二つの意味・あり方がある。情報と明
識である。
・情報としての知識は「技術的知識」である。すぐ役に立ち、応用がきき、予測を可能に
する。社会科学では、このような知識を意図的にめざす営みを特に「政策科学」と呼ぶ。
情報としての知識は、対象(自然・社会・人間)の技術的支配をめざす。
・グールドナーによると明識とは「<自分は何者であり、どこにいるのか>をたえず問題に
するような知識」である。明識は「反省的知識」であり、人間の自己理解・他者理解をめ
ざす。

●明識の意義
現代社会は、高度な技術的知識をもつ専門家エリートが強い影響力を行使する社会であ
る。そのような人たちを「テクノクラート」という。テクノクラートはその道のスペシャ
リストには違いないが、その反面全体への展望に欠き、しばしば現実から遊離してしまい
かねない側面をもつ。
・官僚・判事・教師・技術者・医師・組合専従幹部・会社人間ーー彼らはごく限定された
領域についてはよく訓練された能力をもっているが、反面それ以外の領域については全く
の無能力を呈する。経済学者・社会学者のヴェブレンの「訓練された無能力」という概念
はまさにこのような事態にぴったりのことばである。

●発想法としての社会学感覚
・日常生活は繰り返しである。ルーティン化した行動には自覚的意識や知的判断の欠け
ていることが多い。これに対応する知識を「常識的知識」と呼ぶ。
・このような自明性におおわれた日常生活、常識となっている知識や考え方・価値観を徹
的に疑ってみるーーこれが社会学の第一の発想法である。疑ってみるということは反対する
ということではなく、それがどのようなプロセスから立ち上がってくるかを理論的に考察
することである。