遊行期の生き方を考える(2)

今年100歳になる日野原重明先生は、著作「死をみつめて今を生きる」の結びで「どうよく死ぬかは、その前のどうよく生きるか、どうよく老いるか、どうよく病むかにつながっているものです」と述べています。
この日野原先生の思索から共感したものを引用します。

●避けられない死をどうよく受け取るかということは、人生の中で一番大切なことです。どのようなハプニングが起こっても、たとえ死ぬようなことになっても、心が動揺せず、今までに与えれたいのちに感謝できれば、その人こそ本当に幸福な人であり、「成仏」した人といえましょう。

●人は一方では死を想いながらも、もう一方では自分の体の健やかさをたもつために、食事や飲料、運動、睡眠についての自己管理が必要なのです。

●人の寿命には、自分で守れる寿命と、自分の努力ではどうしようもない力がいつなんどき働くかもしれないという寿命があるのではないか。今となってはそう思わざるをえません。

プラトン全集の「法律」の中に次の文章があります。「若者なら自分で歌い舞うこともたやすく出来るでしょうが、老人になるとかって身に付けていた身軽さも失われているのですから、若者たちの遊戯や祭りを楽しみながら、観察者のほうにまわって過ごすのが適切だと思うのではないでしょうか」。

●生き方と死に方が自然と重なる一本の道を、私たちは歩み続けたいと思います。

●人間というものは一人では生きられません。人と人の間に存在する関係こそは、人々が生きる上でもっとも大切なものです。

<所感>
・老化、病気、死というものが日々の生活に影を落としている遊行期の生き方は、当然林住期の生き方とは異なる姿勢が必要だと思います。
そしてよく老いる、よく病む生き方を確立できるならば、若い年代の病に罹った方への参考にもなるし、下り坂に入った社会の在り方にも何らかの示唆を与えられるのではないかとも思われます。

・日野原先生の論述は、生と死が自然と重なる一本道を歩めるような「よく老いる生き方、よく病む生き方」を考える時の土台になると思います。この土台の上に、自分なりのよく老いる生き方、よく病む生き方を構築したいと思います。

・元気な青年や壮年の人は、病気や事故に遭遇しない限り、死を想って「生き方と死に方が自然と重なる一本の道」を考えることは困難だと思います。
また遊戯や祭りばかりか、政治、経済、文化でも問題に直面すればとにかく何らかの解決に向けてに取り組まなければなりません。
老人は解決者としての能力はありませんが、状況と青年や壮年の人々の動向を物見の塔から観察して、状況の整理と評価を行ない、次代への精神的遺産として提供することが可能です。そうした観察者の役割を引き受けることも意味のあるよき老い方だと思います。また、社会について生き方と死に方が自然に重なる一本の道を構想できれば、評価の基準に使えるのではないかと思われます。

・病気についても観察者になって状況を整理・評価して、後から同じ病で不安を抱えている患者に情報を提供するのもよく病む生き方のひとつの在り方だと思います。今回難病患者の会に参加して、経験者の情報をいただいたことで大変有難かった体験をしました。