知的余生を生きられる幸せ

傘寿を過ぎてからは1年1年が余生ですが、今年も知的余生を過ごせて幸せでした。出版されたばかりの渡辺昇一著「知的余生の方法」新潮新書刊を読んで、共感した記述を記しておきます。
論語に「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」という言葉がある。「知ったこと」というものは実によく忘れるものである。だが「好き」でやったことは身につくから忘れることも少ない。そして孔子はさらに良いのが「楽しむ」ことだというのである。
・楽しければ知的な興味もどんどん湧いてくる。それこそが「知的余生」なのである。
・肉体的な健康が「知的生活」の基礎になる。「知的余生」にとってはさらに重要なものになるのだ。脳も肉体の一部である以上鍛え方によっては、まだ十分伸びるのである。
プロテスタント教会の代表的学者であった中川秀恭(ひでやす)先生から触発を受けた。先生が百歳になられたときにお会いしたが、先生は「95歳を過ぎたころから、死して神の御許へ行くなどということすら考えなくなった」とおっしゃった。これほどの長寿というものは、「悟り」の境地に達しうるものだ、と感心した。その後ハタと気がついた。キリスト教にかぎらず仏教でもなんでもいい。宗教的なことに興味をもつと人は飽きることなくやり続けることができる。これが知的生活を形成していく。
・記憶力も判断力も鍛えればまだまだ捨てたものではない。ごく最近になって脳は弾力性のある臓器だという。その脳を鍛える一番いい方法が読書だ。
・その時76歳(今なら百歳以上に相当)のカール・ヒルティは、いつものように朝著述をしてジュネーブ湖畔を娘のエディットと散歩した。宿泊したホテルに帰るといつもより疲れを感じたので、娘にミルクをあたためてもってくるよう頼んでソファに横になった。間もなく娘が暖かいミルクをもってきた時、彼は苦しんだ様子もなく息を引き取っていた。机の上には平和論の原稿があった。彼は平生こう言っていたという。「人生の最後の一息まで精神的に活発に活動し、神の完全な道具として仕事中に死ぬことが、秩序正しい老年の生き方であり、人生の理想的な終結である」と。